8月8日(金)

国津園のお年寄りに戦争体験をグループに分かれて聞かせていただきました。

MAさんの話(戦争時30歳ぐらいで山添村に住んでいた)

 戦争の思い出を一言しゃべらせていただきます。
 戦争が始まってからは、畑の桑・茶を刈り、または、掘って馬鈴薯(じゃがいも)・甘藷(さつまいも)・里芋・大豆・小豆・あわきび等を育て、刈り取った桑の木は、先生と生徒が来て皮をむいてくれました。その桑の皮は繊維になったそうです。田は減反で大変でした。排水土壌の改良や客土の日々も目に浮かびます。
 なお、大阪に分家がありますので(分家の荷物を疎開させるために)、名張駅から牛車で我が家に荷物を運んでいただきました。兵隊様もたくさん招集をされ、家に残った老人・女・子どもは大変なことでした。
 大字の集会所が高い所に建っているので、父と田植えをしていたところ、今は亡き妹が大きな声で呼んでいるのです。急いで帰ってみると、秋葉明神の建物が燃え(B29が爆撃したそうです)、老いも若きもバケツリレーで消火の最中です。
 それに反物が手に入らなかったので着物や反物を解いてモンペ等作りました。
 召集された兵隊様の見送りには、「勝ってくるぞ」の歌を歌いながら日の丸の旗を持って勇ましく送りました。たくさんの方(若い方も)軍事工場へ行かれました。戦争が激しくなると戦死者もたくさん出ました。身の置き所のない毎日でした。大きな町は空襲で大変でした。(戦争が終わっても)生き残った兵隊様が帰ってきても一ヶ月程も港に滞在した者もありました。兵隊様が帰ってくれば、留守中の子どもは、浦島太郎の様で隣の家へと出かけている有様でした。
 戦争中父が大字の役と大工をしていましたので大変でした。田畑の共同作業も時ならずなされました。また、義勇軍で満州の開拓に軍事工場に召集された若いお方や航空特攻隊に志願された学校の先生もありました。
 聞きにくい話でいろいろ話はつきませんがこの辺でおきます。失礼しました。
KFさんの話

 終戦の年、19歳のKさんは、ハイハイをしている長男と鈴鹿の軍需工場に徴用された夫と共に一身田(津)のにわとりの雛の羽化場の後に3所帯で住んでいた。夫は、広島に徴兵されていったが、目が悪かったので、すぐ帰されたとのこと。自宅から工場に通いたいという夫の意向で名張から一身田に移り住んだKさん。夫が工場の守衛さんから、時々、弁当箱に外米を分けてもらってきたので、それをおかゆにして食べていた。
 夜は敵の目につかないように、黒いカーテンをし、電灯にも黒い布をかけ、外に光がもれないようにしていた。そんなある日、円盤のような厚紙に、空襲の予告が書かれたのもが空から降ってきた。近いうちに空襲があるとのことだか、いつか分からずどうすることもできない。そして、空襲。日中は爆弾が、そして夜は焼夷弾が。爆弾がB29から撒かれる音が風のように聞こえた。赤ん坊を背負って逃げるKさんは白い服を着ていたので、着替えにもどされた。草の中に腹ばいになってB29が行き過ぎるのを待つしかなかった。5・6度やってきては、爆弾をばら撒いていった。爆風で周りの草がゆれ、生きた心地がしなかった。その夜、焼夷弾を撒かれた津の町は火の海になったが、Kさんの住む一身田は、無事だった。
 「戦争は本当にこわいもの。」とKさん。
 名張でも近鉄の電車が銃撃を受けたり、青蓮寺の山にアメリカの戦闘機が落ちてアメリカ兵が2人連行されたとのこと。
IKさんの話

 五人兄弟で兄が一人いた。当時、大阪の玉造で家は鉄工所をしていた。その働き手の兄だが、昭和19年、27歳のとき赤紙が来てフィリピンへと行った。その年、父が伝染病(腸チフス)で55歳で亡くなった。兄は、いったん日本にもどったあと、沖縄に行き(陸軍)銃剣を持って戦った。沖縄戦はとても激しく、兄は昭和20年5月26日に戦死した。戦争では、青酸カリや手榴弾を渡されており、怪我をしたり役に立たない者は自決した。
 当時、玉造のほうは、鉄砲の弾を作っていたため、空襲も激しかった。そのたびに頭巾をかぶって防空壕に入った。近所に大きな爆弾が落ち、その落ちた後に池が出来たし、火災もたくさん起こった。焼夷弾の威力はすごくて亡くなった人も多かった。
 食べ物は全て配給だったが、足りないので泥棒が多かった。さつまいもごはんやかぼちゃのつるを炒めたもの、乾パンや干しバナナなど食べていた。
 兄に手紙を送ろうにも検閲があり、思ったことは書けなかった。
 玉音放送は、聴くようにということだったので聴いたが、よく意味が分からなかった。戦争が終わったということで、ほっとした反面、負けたので何が起こるのかとこわかった。

ボランティアの方の運営する「音楽クラブ」に参加させてもらいました。

全校登校日
平和学習