8月8日(月)
平和学習
               「戦争体験の聞き取り」
高学年

国津園で、登校日に戦争体験の聞き取りを、1・2・3年生、4・5・6年生に別れて行いました。

ショートステーの3名の方を交え、5名の方から、座談会形式で聞き取りを行いました。戦時中、住んでいた場所(浜松・長野・名張など)が違い、体験もそれぞれ違うため、わかりずらい面もありますが、聞き取った内容を自分なりに整理し、まとめてみました(下記参照)。


○戦闘について
・焼夷弾だと思うが、落ちると直系3メートルほどの穴が開いた。空襲は恐ろしいものだが、敵の戦艦から艦砲射撃を受けたときはそれはそれは怖かった。大砲の破片がバラバラと屋根に落ち子どもながらに生きた気がしなかった。(当時浜松在住)
・防空壕というと横穴のものばかりを想像するが、わたしのところでは畑に穴を掘り、上に屋根をおいた防空壕だった。

○食料について
・家は百姓をしていたがいいお米は供出して、家では4等米を食べていた。それも麦を混ぜて(麦の方が多い)食べていた。子どものころ「白いまんまが食べたい。」と言っていたことが思い出されます。
・ご飯には、イモのつるを煮たものやイモを混ぜて食べていた。おいしくはなかったが、何もないので食べなければしかたがなかった。おかずは、肉はなかったが、魚はあった。
・配給では、米ではなく、ヒエやアワが配給された。ぼそぼそしてとても食べにくかった。
・塩も今のような塩でなく、岩塩だった。それを煮て、塩辛い液にし、その液で味付けをした。味噌も自家で作っていたが、その岩塩を使い、大豆だけでなく麦も入れて作っていた。
・砂糖は売っていたが、値段が高く、お金持ちの人はたくさん買えたが、家は買えなかったので、さとうきびを植えて、それを煮て、甘い液にし、それで味付けをしていた。
・海軍では、かんぱんにあんこをはさんだようなおやつが出たようで、それをもらって食べたことがあったが、おしくなかった。
・おやつは、小麦粉のといたのを焼いて、その中にイモやトウモロコシを混ぜたものを食べていた。
・当時、タイヤなどが不足していたので、そういったゴム製品と食料を農家で物々交換してもらった。

○子どもの遊び
・ベーごまや竹とんぼ、竹で作った水鉄砲などで、お金のかかない遊びをしていた。山に入って遊んだり、川に筏を浮かべたりして遊んだこともあった。

○その他、生活全般
・着る物は、もんぺ、上着には名前を縫い付けていた。防空頭巾も持ち歩いた。学校に行ってもほとんど勉強はできなかった。
・風呂は、組(4軒ぐらい)で持ち回りで炊いた。今日は、自分の家、明日は隣の家にお風呂を入らせてもらいにいくといったように。

戦争を体験し、これ以上こわいことはないと思って今まで生きてきました。

戦時中の生活

 ちょうどみなさんと同じくらいのとき、戦争がありました。(昭和10年生まれの方なので、小学校4年のとき終戦でした。)
 勉強はしなかったです。空襲警報が出ると、防空頭巾をかぶって通学団別に並んで家に帰っていました。帰らんならんのが一番つらかった。解除になっても学校には行かなかったです。
 「配給制度」なので、着るものもありません。みんな、かすりのもんぺをはいていました。運動靴もないので、わらぞうりやげたをはいていました。大阪から買出しに来る人で電車は満員でした。お金のない人は、着物と食べ物を交換しました。
 うちは百姓をしていたので、食べるものだけはありました。と言ってもおかゆやぞうすいばかりで、さつまいも、じゃがいも、とうもろこし、さとうきび、かぼちゃなどをごはん代わりに食べていました。じゃがいもはゆでて塩をかけて食べました。とうもろこしは焼いて食べました。くどの横で埋めて、丸ごとおきで焼いて食べました。すいとんといって、汁の中に小麦粉のだんごやかぼちゃが浮いているものも食べました。今はぜいたくなものをいただいているなあと思います。
 毎日「敵機来襲」でB29が飛んできました。こわいほど飛んできました。飛行機雲が尾を引いて真っ白でした。爆弾や焼夷弾がいっぱい落ちました。軍需工場をめがけて爆弾を落としていきました。「灯火管制」で、電球に黒いきれをかぶせ、家の外に光をもらすことができませんでした。
 学校の裏の公園には防空壕がありました。学徒動員で、桑の皮むき(?)をしました。ふろしきで土を運んで開墾もしました。昔はちり紙だけ焼いて、野菜の皮などは堆肥にしていました。できた堆肥を運動場の畑に運び、給食には畑でできたいもを食べていました。子どもは1000人ほどいましたが、「こづかいさん」一人で世話をしてくれました。
 お店はありましたが、売り物はなかったです。お菓子はありましたが、こづかいはないし高いので買えませんでした。水以外の飲み物はありませんでした。缶詰は兵隊さんへ送りました。食べられないのでみんなやせていました。床屋さんに行っても人がいっぱいでした。床屋さんも「徴用」で軍需工場に行っていていないので、奥さんだけでした。乗り物は、電車、汽車、タクシー、バス、自転車などがありましたが、切符は配給で高かったです。
 空襲警報が出て帰るとき、動いていたら射撃されるので道草もできません。戦争は早く終われと思ったけど、なかなか終わりませんでした。8月15日、お昼を食べて昼寝をしていたらラジオから大本営発表、何かと思ったら白旗が揚がったという天皇陛下の話でした。
 戦後も配給制で、生活はなかなか元には戻りませんでした。6・3・3制が始まり、中学校ができました。中学校は仮住まいの教室でした。英語が勉強に入ってきました。楽しく学校に行くことができませんでした。わたしたちは勉強ができませんでした。みなさんは勉強をがんばって、偉い人になってほしいと思います。

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