国津園で、登校日に戦争体験の聞き取りを、1・2・3年生、4・5・6年生に別れて行いました。
ショートステーの3名の方を交え、5名の方から、座談会形式で聞き取りを行いました。戦時中、住んでいた場所(浜松・長野・名張など)が違い、体験もそれぞれ違うため、わかりずらい面もありますが、聞き取った内容を自分なりに整理し、まとめてみました(下記参照)。
戦時中の生活
ちょうどみなさんと同じくらいのとき、戦争がありました。(昭和10年生まれの方なので、小学校4年のとき終戦でした。)
勉強はしなかったです。空襲警報が出ると、防空頭巾をかぶって通学団別に並んで家に帰っていました。帰らんならんのが一番つらかった。解除になっても学校には行かなかったです。
「配給制度」なので、着るものもありません。みんな、かすりのもんぺをはいていました。運動靴もないので、わらぞうりやげたをはいていました。大阪から買出しに来る人で電車は満員でした。お金のない人は、着物と食べ物を交換しました。
うちは百姓をしていたので、食べるものだけはありました。と言ってもおかゆやぞうすいばかりで、さつまいも、じゃがいも、とうもろこし、さとうきび、かぼちゃなどをごはん代わりに食べていました。じゃがいもはゆでて塩をかけて食べました。とうもろこしは焼いて食べました。くどの横で埋めて、丸ごとおきで焼いて食べました。すいとんといって、汁の中に小麦粉のだんごやかぼちゃが浮いているものも食べました。今はぜいたくなものをいただいているなあと思います。
毎日「敵機来襲」でB29が飛んできました。こわいほど飛んできました。飛行機雲が尾を引いて真っ白でした。爆弾や焼夷弾がいっぱい落ちました。軍需工場をめがけて爆弾を落としていきました。「灯火管制」で、電球に黒いきれをかぶせ、家の外に光をもらすことができませんでした。
学校の裏の公園には防空壕がありました。学徒動員で、桑の皮むき(?)をしました。ふろしきで土を運んで開墾もしました。昔はちり紙だけ焼いて、野菜の皮などは堆肥にしていました。できた堆肥を運動場の畑に運び、給食には畑でできたいもを食べていました。子どもは1000人ほどいましたが、「こづかいさん」一人で世話をしてくれました。
お店はありましたが、売り物はなかったです。お菓子はありましたが、こづかいはないし高いので買えませんでした。水以外の飲み物はありませんでした。缶詰は兵隊さんへ送りました。食べられないのでみんなやせていました。床屋さんに行っても人がいっぱいでした。床屋さんも「徴用」で軍需工場に行っていていないので、奥さんだけでした。乗り物は、電車、汽車、タクシー、バス、自転車などがありましたが、切符は配給で高かったです。
空襲警報が出て帰るとき、動いていたら射撃されるので道草もできません。戦争は早く終われと思ったけど、なかなか終わりませんでした。8月15日、お昼を食べて昼寝をしていたらラジオから大本営発表、何かと思ったら白旗が揚がったという天皇陛下の話でした。
戦後も配給制で、生活はなかなか元には戻りませんでした。6・3・3制が始まり、中学校ができました。中学校は仮住まいの教室でした。英語が勉強に入ってきました。楽しく学校に行くことができませんでした。わたしたちは勉強ができませんでした。みなさんは勉強をがんばって、偉い人になってほしいと思います。