8月11日(水)
平和学習

登校日に国津園で平和学習を行いました。3グループに分かれ、それぞれお年よりの方に戦争当時のお話を聞かせていただきました。

MNさんのお話
 Mさんは、明石で育ち、結婚して神戸に暮らしていた。
 小さいころ天皇陛下の乗った列車(お召し列車)をお出迎えに行ったが、列車が通過するときにずっと礼をしていて何も見えなかったことをよく覚えている。
 結婚をして、子どもも1人いたが、そのころ戦争も激しくなり、神戸も何度となく空襲があった。空襲警報がなると1歳になる子どもが、よく
「あっぽん ごう」
と言った。あっぽんというのは防空頭巾のことで、ごうというのは防空壕のこと。1歳の子どもがそんな言葉を覚えるほど頻繁に空襲警報がなった。神戸には、焼夷弾ではなく爆弾がたくさん落とされた。防空壕にいても爆弾が落ちるとバラバラと土が落ちてきて本当に怖かった。また、艦載機が頻繁に飛んできて、よく逃げ回った。防空壕に行くのが間に合わないときには、川へ避難をしていた。空襲時には、日本の飛行機はなくアメリカの飛行機だけが悠々と飛んでいた。高射砲も爆撃で破壊されており、空襲が早く終わるのを待つだけだった。空襲が終わったあとは、昼でも煙で真っ暗だった。
 毎日の生活は、食糧もほとんどなく、配給で少量のいもはもらえたが、姑がよく買出しにいなかに行っていた。お金では農家の方は売ってくれなかったので、着物を持っていって米やいもと交換をしてきた。そのお米を使ってぞうすいを作って食べていた。ぞうすいも目玉ぞうすいといって米が少しであといものつるやメリケン粉で作った団子を入れて食べた。どんぐりの粉で作った団子も入れたが、にがくて渋いのでおいしくなかった。仕事の帰り遅くなると、どの家も灯火管制(電球にふろしきをかぶせて外に光をもらさないようにする)をしており、道はほんとうに真っ暗だった。
 戦争の終わる1年前に夫は和歌山の連隊に衛生兵として出征した。連隊に着くのが、1日遅れたが、その前日に連隊のほとんどの方は「硫黄島」に行かれた。もし1日遅れなかったら、夫も硫黄島で玉砕していたと思う。幸い夫は内地勤務となり、終戦後半年して家に帰ってきた。
 空襲のとき、赤ちゃんとまくらを間違えて赤ちゃんがなくなった話や防空壕に爆弾が直撃したあと掘り返していたれ弁当箱が出てき、開けると湯気が出てきた話などいっぱい聞いた。
 「今は、本当に天国のような暮らしです。平和は本当にいい。」と話をくくられました。
KIさんのお話
 京都伏見の16師団9連隊に入隊した。いったん兵役解除になったが再び徴兵され、28歳から32歳まで中支派遣軍として中国に渡った。船で1週間ぐらいかかった。
 食べ物は支給品で、足りない時は中国人の家から徴発した(盗んできた)。黒豚を1頭徴発すると、10人で1週間くらい食べられた。軍隊にはいろんな仕事をしていた人がいるので、調理のできる人もいた。初めの数日はおいしいけど、だんだん飽きてくる。
 水は、揚子江の黄色い泥水をきれいにして飲んだ。きれいにはなったけど、においはとれずくさかった。水汲みは新兵の仕事で、天秤棒の担ぎ方にはコツがあった。桶が揺れるので水がこぼれ、ついたころには半分くらいになっていることもあった。
 服は、茶色い詰襟のごつい軍服で、夏は暑かった。蚊が多かったので蚊帳のようなものをかぶったが、継ぎ目を刺された。
 怖い思いといえば、敵との遭遇だ。敵と遭遇したら戦いになり、何人かは死んでいく。だから、遭遇しないようにしていた。討伐に行っても、敵は誰もいない。スパイがいて、日本軍が攻めることはばれていて逃げた後だった。日本軍も同じ。敵に襲われ、手投げ弾が柱に当たって爆発したことがあった。柱に当たらず中に入っていたら死んでいた。順番に見張りをしていた。三八銃はなかなか当たらない。現地で、300メートル向こうの5つの的を撃つ厳しい訓練を2ヶ月すると当たるようになる。
 入隊の時は、家族や近所の人が見送ってくれた。こそっと「死んだらあかん」と言ってくれた。不思議なもので、一人息子がよく死んでいったようだ。部隊長が検閲したが、手紙も出した。戦術に関係することや戦争に反対することが書いてあったら、手紙は没収された。3ヶ月に1度ほど出した。
 病気やけがの人が出たら、手当できる人はみんなで介抱したが、手に負えない人は後方の病院に送って入院させた。前線からは、病院へ行くまでに時間がかかる。
 平和はありがたい。平和に越したことはない。戦争(けんか)しても得にはならん。
TTさんのお話
 Tさんは、大阪の柏原というところに住んでいました。戦争が始まったころは、Tさんはもう結婚していて、子どももいました。ご主人は海軍につとめる軍人で、遠くはなれた広島にいたそうです。
 Tさんがいたところは大阪ですから、家がたくさんたち、人もたくさんいました。敵の軍隊にねらわれるところでもありました。Tさんがいたところは、艦載機(かんさいき)がよく飛んできました。艦載機というのは、戦艦(せんかん)につめる小型の飛行機で、戦艦を滑走路(かっそうろ)にしてとび立ちます。小さいので、地面すれすれの低いところもとぶことができるのです。また、家や人に近づいて、中から銃(じゅう)をうつことができます。Tさんたちは、いつも、艦載機におそわれはしないかと、びくびくしながら生活しなければなりませんでした。艦載機がやってくるとわかったら、すぐに、ほしてあったせんたくものをとりこみました。そして、おし入れの中にかくれたこともありました。艦載機がおそってきたとき、たまたま橋の上をとおっていた人は、たくさんころされました。
 戦争中や戦争がおわってしばらくは、ものがありませんでした。
おこめややさいは、配給(はいきゅう)といって、ふだとこうかんに、きまった量しかもらえませんでした。着物とこうかんして、生活にひつようなものを手に入れることもありました。警察のとりしまりがあったので、豆は皮をむいたりして、かさをすくなくしてかばんにつめたこともありました。
 当時の子どもたちは、まりなげや、ままごとなどをしてあそんでいました。
 戦争がはじまるよ、というおしらせは、Tさんたちにはちょくせつ来ることもなく、とつぜんはじまったようなものでした。また、日本軍がアメリカの真珠わんをこうげきしたこともラジオでしりました。